私の履歴書
別れ
わたしは過去に二度ほど父にお別れを言ったことがあります。一度目が高校を卒業して単身上京した時、2回目は日比谷の東京會舘で結婚式を挙げ妻と新 たな生活を始めたとき。そして3度目は昨年の12月23日最後の別れの言葉を言わなければなりませんでした。しかし悲しくてとても声には出すことができま せん。日頃から入院していた病院で急に呼吸困難に陥りそのまま私達に看取られず1人で旅立ちました。遠くで暮らすわたしが父を見舞うのにこれほど遠いな! と感じたことは過去にありませんでした。本当にさびしい思いをさせてしまいました。。。。。。。その日午後3時に息を引きとったとの知らせを5時ごろ受け 大急ぎで羽田に直行するも8時になり福岡便はすべて終りただ1便だけ北九州空港ゆきだけでした。九州に着けば何とかなると思い飛び乗り10時に北九州空港 に着き幸い1社だけニッサンレンターカーが営業していたのでマーチを借り深夜の高速道路を走らせ父のもとに駆けたのでした。空港から1直線、しかしその日 には会うことはできませんでした。遠い!本当に遠かった!結局自宅に着いたのは1時をまわったころでした。 父は本当に安らかな顔でわたしを待つていてく れました。まるでこれから楽しみがあるかのように
わたしには妹がいました。私が中学1年生のとき病気で9歳でなくなったのです。父はいつも妹のことを忘れることができず一生想い続けていました。遺言はあり ませんでしたが半年前妹の50回祈をするようにいわれていることが唯一の遺言です。アン二ローニーを歌いながら天国に旅立った父は今頃はきっと我が娘と再 会を果たしほっとしていることでしょう。父の葬儀は花輪の数より人の数であったとおもいます。私たちがさびしい想いをさせたかわりに地域の人たちから代わりに親切やおもいやりをいただいた のです。 これからわたしは父が受けた人々からのご恩をお返ししなければならないと思います。
いまはまだすこし父をなくしたことで心に穴があいているような気持ちで頭もボーとしていますが心配ありません。今年もがんばろうとおもいます。ブログも再開します。ゴルフもやります。 本年もよろしくお願いします!
golfを再会します。
幼き頃の思い出は次回また読けます。実はおよそ15年前までゴルフを楽しんでいました。ホールインワンの経験もあり仲間から祝福された名誉もありました。 平成4年に診療所を新規に移転開業した関係上毎週木曜日を休みにしていたのですが診療することになつたのです。駅前のせつかくの場所を平日に無駄にするわ けにはいかなかったからです。おかげさまでこどもたちも成人し長女は消化器内科の医師として早6年めをすごし長男は私の後継者としてこのたび大学院を修了 し歯学博士を授予されることとなりました。還暦を迎え人生をもう一度人生をリセットしたいと思いGOLFをはじめることにしました。今日かつてのクラグを 清掃し練習場でボ?ルを打つてみました。ちょっとクラブが重く感じましたがアイアンは何とか、でもドライバーは空振りしました。恥ずかしいのでこの次なれ たらやろうとおもいもっぱらアイアンばっかり練習しました。およそ15年ぶりにしてはまずまずかなー。ゴルフに関して昔の反省をしなが、今日から実践しよ うすることは格好よりもあがつて何ぼ!打つ前にかならず素振りしてイメージをつかんで球をうつようにすること。練習場ではまっすぐな球を追及する。とりあ えずこのようなことを課題にしてこれからは常に心理学的なイメージトレーニングをとりいれたゴルフに挑戦していきたいと思っています。
続 幼き頃の思い出
私の記憶にあるのは小学校に入る前ころからでしょうか。木原の家は石垣と築山に囲まれた庭園のなかのお城のような大きなうちでした。そしてそのまわりは仕 入れた陶器をしまう倉庫群が学校の校舎のように立ち並んでいました。広場もありました。広場ではキャッチボウルもできましたしやわらかいゴムボウルを竹で つくったバットで打って倉庫の屋根を越したらホームランでした。ボウルは倉庫の向こう側までさがしにゆきました。家の中は大家族で母の妹や弟(わたしの伯 父や叔母)そしてお手伝いのおねえさんまで数人すんでいました。家の間取りは今様の洋室や個室はなく畳と障子に襖の構成で座敷のほかに奥座敷までありまし た。奥座敷から庭園をながめた情景はこどものころはなんとも感じなかったのですが、いまではすばらしい思い出のシーナリーとしていちばんノスタルジアを感 じます。伯父や叔母たちはいまでも虎市翁にとって初孫であったわたしをそれはそれはよろこんでかわいがったと、ことあるごとにいいます。しかしわたしはほ とんど覚えていないのです。毎日大人数でおなじ釜のごはんをたべるのですから楽しかったりけんかをしたりです。座敷の大広間でプロレスもできましたよ。ザ デストロイヤーの4の字固め いまでもできます。ミスターアトミックの覆面もしてあそびました。台所の土間から円盤(お皿)もとんできました。
続 幼き頃の思い出
私が幼いころ育った木原というところはちょうど佐賀県と長崎県の県境で山の中の村落でした。国道からおよそ2キロぐらい入ったところで当時は国道 も砂利道だったのです。村には100世帯ぐらいあったのでしようか。お店は雑貨を兼ねた"タバコ屋"さんと駄菓子と佃煮などを売る"おヒロおばちゃん"の お店の2件だけでした。
当時母の実家の屋号は"赤絵屋"とよばれていました。ここの村落には窯元が4?5件ありましたが赤絵屋の先代やそれ以前の代は青磁の皿や器に鉛を溶 いて顔料にした赤い絵の具を絵付して焼く仕事を家業にしていようです。 すでに祖父はそのころ有田周辺の窯元から陶磁器を集め大阪や東京の卸業者に売る商 売をしていました。いわゆる陶磁器の元卸という商売を始めいまでも尾崎陶器株式会社として続いています。 祖父の名前は尾崎虎市といいました。母の話によ れば母が子供のころ虎市翁が商いで上京すればよく日本橋三越でおみやげを買ってきてくれたそうです。虎市翁の弟で分家して泉山陶器をおこしたひとの孫でい ま財界で活躍している人物がいます。シャンプーの花王社長を務める 尾崎元規君そのひとで泉山家の二男です。よくぞわれわれの一族から日本のトップ企業の 頂点に立ったものだと尊敬と誇りを感じます。
次回は木原の家の様子をかきます。
幼い頃の思い出
わたしは高校生になるまで母方の実家で育ち生活しました。九州に有田という焼き物の産地があります。むかし豊臣秀吉が朝鮮征伐と称して諸大名を朝鮮 に送り当地から引き揚げるとき諸藩の殿様は高麗の陶工を捕虜にして自分たちの藩に住まわせて陶磁器をつくらせ朝廷や幕府に献上したと伝えられています。有 田は磁器に適する陶石を朝鮮の陶工 李三平というひとが発見しそこで陶磁器の歴史が始まったといわれています。
当時諸藩は競いあって焼き物をつくりその製造法は秘密裏でした。他藩に技術が知られることを恐れたのです。陶磁器の製造工程はいくつかにおよびま す。たとえば、石や粘土を砕いたり練和したり、ろくろで形をつくったり、素焼や絵の具で絵をつけたり、そして温度を管理しながら本焼きして仕上ます。しか し職人たちは各々工程ごとに分断され働く場所や生活する所まで交流しずらいところに住まわされたのです。分業により製造法を盗まれまねられたりたりするこ とを防いだのでした。
江戸時代に入有田の磁器は隣のまち伊万里の港から東インド会社を通じて遠くヨーロッパにまで渡り重宝されました。そのころのものは古伊万里といわれ現代ではたいへんなお宝でしょう。
はじめまして
このホームページは2008年10月より新規に立ち上げましたので今日はじめてブログを書くことになります。わたくしは院長の迎 耕司ともうします。どうぞよろしく。
私は来月11月24日に日本で最も西方に位置する長崎県平戸市で小中学校を兼ねた同窓会が還暦を記念して行われ出席します。 そうです、わたしは堺屋太一さんがいういわゆる団塊の世代の真っただ中昭和23年11月17日生まれ来月で満60歳を迎えます。
予てより自分が歩んできた足跡をそろそろ振り返り何かの形に残しておきたいという想いがありました。 偶然にも今回新らしいホームページを立ち上げることになりブログの欄を新設しました。
日本経済新聞の一番最後の面に「私の履歴書」という欄がありますがここは当代各方面から大変業績のあった人や功績のあった方々が登場してひと月間執 筆します。もちろん私などには縁のない雲の上のひとのお話ですが時々読んでいます。昔むかし若い頃夢のまたゆめの中で自分もそこにいたような気もします。
人生60年還暦を迎えるにあたりこれを一里塚のひとつと捉えこれまでのことをふりかえり、また未来を展望するためこのブログを活用したいとおもいます。さてこのブログですが下記のようなカテゴリーをもうけます。
1.お知らせ 2.私の履歴書 3.趣味の読書 4.ホビー三昧 5.ドクター人形コレクション
6.これからの歯科医療
私自身のいままでのこと、現在やっていること、そしてこれから考えていることなどブログ通して発信します。また皆様のお役に立つ歯科医療情報にも力を入れたいとおもいますのでよろしくお願いいたします。
次回は自己紹介からはじめます。


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